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60年の歴史 第4章

第2節 社長交代と新たな分野の開発

逆風下の社長交代

1993年(平成5)1月、幸作社長は社長を浩史専務に譲り、自らは会長に就いた。

幸作社長は、46年に創業以来、47年間にわたって会社を牽引し、時代の変化に対応しながら木型から金型へ業態を転換、小松製作所に評価される高精度の鋳造金型製造企業として確固たる経営基盤を築いてきた。交代の前年度第27期(1992年1月1日〜12月31日)の売上高は約6億4800万円、社員は57人と、県内金型企業としては最大手の一角を占めるまでになっていた。

幸作社長の友人で当時協和製作所社長だった狩野幹洪氏は、「幸作さんは常々、『70歳になったら社長を交代する』と言って、『社長のときは自分の権限だが、いったん任せたら口出しはしないつもり。結果だけをもってくればいい』とも、言っていた」と、述懐する。

幸作社長と入社したころの浩史新社長(1980年)

幸作社長と入社したころの浩史新社長(1980年)

新社長松村浩史は、幸作会長の次男で1955年(昭和30)生まれ。富山県立高岡高等学校から早稲田大学理工学部工業経営学科に進み、78年に株式会社北日本テクノスに入社して修業し、79年に入社した。84年以降、小松製作所のCAD/CAM推進プロジェクト委員会にも参加して当社のコンピュータ化を牽引。86年に専務に就任すると、早くからその経営手腕を発揮した。

浩史社長は経営者としての幸作社長と自分を次のように語る。

中小企業の親父だったからなのか、人を大切にする経営だった。利益主義に走るのではなくて、「人が仕事をしてくれるから会社がある。人を育てることが重要だ。金型も設備産業と言うが、最終的に金型を製作するのは職人だ」と言っていた。ほんとうに職人を大切にする人だった。私はどちらかというと職人さんの「見て学べ、背中を見て盗むものだ」という哲学になじめなかった。「そんなことをやっていたら何年かかるかわからない。ものを標準化して、紙に書いて、技術を見える化するのが、職人のこれからの姿ではないか」と思った。その象徴がCAD/CAMの導入でした。

浩史社長の言葉どおり、幸作社長から浩史社長への交代は、町工場から経営、作業のデジタル化、標準化による企業経営への転換を意味した。

幸作会長は確かに経営に口出しはまったくしなかった。それはあたかも獅子が子を滝壺に落とす例えにも似ていた。91年度に売上高約7億1800万円、経常利益約2300万円の過去最高益を計上した当社だったが、92年度の売上高は約6億4900万円(対前年比90%)に後退し、初めての赤字に転落。93年度はさらに約4億4000万円と91年度の61%にまで落ち、経常損失は約7700万円に及んだ。原因はバブル経済の崩壊だった。

89年の大納会で3万8915円87銭を記録した日経平均株価は大きく下落。90年の大発会時に590兆円(世界一)あった東京証券一部市場の時価総額は、10月1日には319兆円にまで減少し、東京で271兆円、全国では400兆円のバブルが吹き飛んだ。同年11月の企業倒産(負債総額1000万円以上)は633件(前年同月比123%)、負債総額は3448億円(前年同月比4.2倍)にもなって2カ月連続前年同月比増となり戦後最長の景気後退が始まった。UFJリサーチ&コンサルティングの調査によると、バブル崩壊後の91年から2003年の間に国内の土地や株式などの資産は1389兆円の損失が発生したという。

当社の業績推移(単位:千円)

1991年 1992年 1993年
総売上高 718,570 648,890 440,470
対前年比 109% 90% 68%

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