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60年の歴史 第1章

第1節 松村幸作、その生い立ち

教師の道を断念、木型の道へ

松村幸作の両親と姉弟

幸作の両親と姉弟(射水神社にて)

質素で勤勉な両親、仲の良い兄妹に育まれて下関尋常小学校から平米高等小学校に進んだ幸作はいつも主席だったという。とくに数学が得意で「将来は教師になりたい」という夢を持っていた。そしてこの夢を実現するため、文部省検定中等学校教員資格試験(文検)を受験し、合格した努力家でもあった。

 

文検は、戦前文部省が実施した中等教員試験である。戦前の中等教員は、大きく四つのルートで養成されていた。高等師範学校、帝国大学、文部省に認可された専門学校の卒業者と、この文検合格者のルートである。当時、高等師範学校、帝国大学、専門学校への進学はごく一部だったから、中学校、高等女学校、実業学校等で教える教員の40%前後はこの文検合格者だった。したがって試験は難しく、この難関に合格することは本人の優れた資質の証明と社会的尊敬の獲得を意味した。この試験に幸作は高等小学校を卒業しただけで合格しているのである。家族にとっても重要な出来事だったのは間違いなく、姉の文子は、受験の日の朝、試験を受けに家を出る幸作の背にコートをかけて送り出したことを昨日のことのように覚えているという。

しかし、1937(昭和12)年3月の卒業にあたって幸作は、父親の仁三吉から木型職人の道を勧められ、教師を断念した。後に家族に語ったところによると、このとき幸作は国鉄(現、JR)の試験にも合格していたという。しかし仁三吉は、教師や国鉄マンよりも自分の妹の娘が嫁いだ柴田木型の繁盛ぶりが魅力的だったようだ。手に職を持つ方が堅実だと考えていたのかもしれない。幸作に木型職人の道を勧めた。当時、家長の言葉は絶対だった。幸作は努力して勝ち取った教師の夢も断念して父の言葉に従い、柴田木型に見習い工として入ったのである。

「今にして思えば、親の意見に何も言わずに従ったんですね。堅い人だった」と、文子氏。しかし、断念したものが大きかっただけ、幸作は木型に持てる力のすべてを注いだ。柴田木型で基礎を学んだ幸作は、さらに腕を磨くため大阪市東淀川区野中(現、淀川区野中)南通りにあった田中木型製作所に木型見習工として就職し、修業した。

東淀川区野中南通りは北大阪一の交通の要所として知られる十三近くに位置し、古くから機械、機械部品、金属関連の町工場が集積していた。アジア最大の兵器工場といわれていた大阪砲兵工廠にも近く、幸作が住んでいたころは、砲兵工廠と大阪市北部地域の生活水源であった十三の柴島浄水場を空襲から守るために1935年に建設された帝国陸軍の八八式高射砲台が数基、日夜空をにらんでいた。

後年、幸作が、友人で株式会社協和製作所の社長だった狩野幹洪氏に話したことによると、田中木型製作所は、株式会社神戸製鋼所が製造する船舶などの木型を造っており、従業員規模も30人くらいの当時としては大きな木型工場だったようだ。大阪砲兵工廠も近いことから「他の木型屋と違って、いろんな仕事があった。先輩からはずいぶん絞られ、鍛えられたが、それが今、役に立っている」とも話していたという。31年9月の満州事変をきっかけに進んだわが国工業の軍需化はこのころには町工場にまで及び、、十三には軍需工場に指定された工場も多く、とくに軍需と結びつく木型業は繁忙を極めていた。

堅い人

 

富山県の方言で、実直な人、まじめな人を言う言葉。

 

大阪砲兵工廠

 

1870(明治3)年、造兵司として大阪城三の丸米倉跡に設立された官営軍需工場。幾度か名称を変えたが、一貫して陸軍直営の兵器工場として大砲など重量兵器の製造にあたり、その金属工業技術は高く評価されていた。最盛期の敷地は、約132万m²を占め、最高時の従業員数は6万8000人にも及んだ。

 

八八式高射砲

 

大阪の水瓶と兵器工場を守るはずだった八八式高射砲の砲弾到達高度は約6000m、戦争末期に雲霞のごとくおとずれたB29の飛行高度は1万m。とうてい役にはたたなかった。

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